秀話寛語「諦観の境地」

一昨日、メールでレイコさんとガス屋さんに「10月9日水曜日のゴルフ、今回は自重して、お休みさせて頂きます」とした。自分の身体の状況と、自分の置かれた環境を鑑みるに、ここはゴルフを諦めるのが賢明。ネットによると、この「諦める」は、本来は仏教が語源で「 諦観たいかん 」と書きます。諦観とは「あきらかにみる」ということ。ちなみに「諦観」の読み方は、世間では「ていかん」と読みますが、仏教では「たいかん」と読みます。=諦観の境地の意味=また、諦観の境地という言葉も使われますので説明しておくと、世間で「晩年に諦観の境地に入った」などというと、やはり普通のアキラメの境地のような意味です。また、「世の中の成り行きを諦観する」というとよく見るとか、じっと見る、明らかにみるという意味になり、こちらは仏教の意味に近くなります。

今日ハートレモンのシゲルさんが「もう面倒見切れんから、近い将来、あの若者との縁は切ろうと思う」と苦しい心境を吐露した。もう何回も聞いた話。まるでカープファンの心境?ダメな男を好きになる女の心持ち?自己陶酔型?先日の集金先の一人暮らしの女性の話をしてあげた。「この世で一番大事なことは?」との問いに「身も心も自由なこと」とその女性はきっぱりと答えた。「憎むことでいつまでもそいつに縛られている」=シゲルさん。いつになったら諦観の境地にたどりつくのやら?