DOCUMENT 敵ながら天晴!

 この9月いっぱいで全国紙の新聞を扱っていたJTN氏が廃業した。7月20日に中国新聞社から「JTN氏が廃業を申し出ているので、全国紙を引き継ぐことを、受けてほしい」旨の話があった。「お断りします」とキッパリ。理由は、A20Y20M5S5N7他にスポーツと種類ばかり多くて煩雑なこと。JTN氏が個人的な付き合いで新聞をとらせているお客さんが多いこと。全国紙が送り付けている無代紙をサービスにスポーツ新聞をとらせていること。などなど、しかし、断り切れなかった。後から聴けば、下蒲刈では全国紙扱いの新聞販売所が廃業を申し出ているが、黒瀬などでは中国新聞が廃業を申し出て、後任が見つからず、朝日新聞の販売店が引き継いだ、とか。なるほど、中国新聞社も自社の都合ばかりも言ってられないわな。8月10日に朝日新聞社の担当員が来た時に「10月には、たぶん引き継ぎ部数の半分になるので、権利金の清算を1次2次と分けてもらえないか?」と言ったのだが「業界の慣例に従って、最終月の部数=売上金額での清算になります」と譲らない。9月27日全国紙各社がわが家に来訪し、営業権の譲渡他の契約書を交わした。信認金・印鑑証明書・実印・印紙、各社バラバラのやり方。夕方には営業権の権利金をJTN氏の口座に振り込んだ。天下統一に14年かかったことになる。

 2009年に下蒲刈島に来るまでの5年間は、中国新聞の子会社で、備後地区の整理屋として、中国新聞の販売所の統廃合をしていたオイラ。2009年島の前任者から営業権を買い取る時から、天下統一を視野に入れてた。税務署に開業届を出すときも屋号を中国新聞蒲刈販売所ではなく『とびしま新聞舗』としようかと考えたほど。とびしま海道の7つの島の新聞を全部うちが扱う販売所にしようとの野望があった。その手始めに、下蒲刈島上蒲刈島向地区の同じエリアで全国紙を扱うJTN氏とWINWINの関係を築くべく、エリアを分けてお互い合理的な共同配達を実行した。向地区の中国新聞と全国紙はJTN氏が、下蒲刈地区のすべての中国新聞と全国紙をオイラと女房と配達スタッフで配って、部当たりの配達手数料も同額にして、相殺勘定。JTN氏を配達スタッフとして保険もかけて、それでも10万円近い金をJTN氏に渡していた。お互いの利のある関係が続いていたのだが・・・。

 2013年の秋、住吉浜病院の院長先生から「自宅分の中国新聞の集金を病院に来てください」と電話。おかしい!向地区の院長先生宅に中国新聞を届けてないのだが?病院に集金に行くと「あれ?JTNさんじゃないの?」とのこと。聞けば、ずいぶん前、配達途中のJTN氏に「読売新聞から中国新聞に変えて!と注文して、集金も来ていた」とのこと。予備紙を『かくし紙』として使っていたことが判明。だが、不問とした。

 2014年4月1日、当時、中国電力のメーター検針員として豊浜町を検針していた(とびしま新聞舗への布石として、狭小路のばかりの漁師町の把握のため)オイラの携帯に「あんたぁ!うちの客に、何を!営業かけとるんね!」としゃくり上げて来た。中国新聞社の試読キャンペーンで、たまには『営業努力』を見せなきゃいけない時もある。うーん?「もう、明日から新聞配達はケッコーですので、やめていただきます」とキッパリ。「私は、やめんよ!明日からも配るよ!」とJTN氏。「いやいや、無理!あなたね、院長先生の新聞を・・・とかもありますし・・・」とオイラ。「なんで、今ごろになって、言うんね!」。「いやいや、もういいでしょう。新聞は配送しません」とオイラ。この後、その穴を埋めるのに、難儀をするのだが・・・それは後日。

 ビックリなのは、2014年4月13・14日新聞休刊日、女房の両親を連れて、東京タワー・国会議事堂・隅田川クルーズして一泊、東京スカイツリーの展望台で、聞き馴染みの声、振り返るとJTN氏が毎日新聞の積み立てのツアーで来ていてビックリ!その後も、関前岡村島からフェリーで今治に行くときも同船だったり・・・。

 極めつけは、2023年10月5日上蒲刈島の農協で読者の口座振替届出書の確認を女房がしてもらっていると・・・JTN氏が入って来て・・・女房はJTN氏に対してのPTSDがあるので、急いで外に出たとか・・・、どうにか怨敵退散とならないものか?