映画『孤狼の血』=『空気読まずに悪と戦う血統』

f:id:tobishima-life:20180525121035p:plain

孤狼の血』先日観てきました。役所さん演じる大上(ガミ)さんが「警察は何をしてもええんじゃ!」とばかりに、周りの空気は無視して、ガンガンやってくれます。スッキリです。松阪くん演じるヒロダイくんも、組織の悪に向かうみたいです。『孤狼の血』=『空気読まずに悪と戦う血統』のようです。おススメです。

空気は怖い? KYのススメ!

日大アメフト事件、本当の犯人は「空気」、監督のご意向を読んだコーチが選手に圧力をかけ、空気を読んだ選手が暴行に至った。NHKで放送された『100分でメディア論』でも、「世の中の空気が、とどまることを許さなかった」と、第二次世界大戦(太平洋戦争)開戦や戦艦大和が「無理を承知で出撃せざるを得なかった」状況を、当時の最高責任者が述懐している。最近の「首相案件」「忖度」もすべては「空気」。出世するには「空気を読む力は必須」。しかし、出世して『権力』を持つ地位になると、問われるのは、その人の品格。『権力は腐敗する』という真理を心得て、自戒しながら事に当たるのが肝要。俺なんて、昔から「空気が読めないから」、人の顔色見てしんどい思いをしている人に、KYを勧めたい。

40ヤード、アプローチ練習場?

 

 

f:id:tobishima-life:20180522143829j:plain

うちの裏の空き地、きれいなGREENができました!これで課題のゴルフのアプローチ練習ができます。だけど、打ちすぎて・・・ガラスを割らないか?心配・・・。それにしても、草の伸びるのは早いです。

ゼロから2年間で学ぶ浄土真宗

f:id:tobishima-life:20180521105445j:plain

先月、オリコミ広告で「ゼロから2年間で学ぶ浄土真宗」チラシを見て、さっそく夫婦で参加申し込み。5月19日(土曜日)第一回の研修に行ってきました。仏事作法では、数珠のお話、お経本の作法、焼香の作法の後、「本当の幸せと仏教」のテーマで、5人ずつの5班に分かれ、各班に司会役の僧侶を交えてグループミーティングを約一時間。私たちの班のお坊さんは東京出身で「東京では火葬の順番待ちで、長い時は一週間も・・・」との話に、一同驚愕。ご主人に先立たれた3人のかたは、口々に連れ合いを亡くすことの悲しみの深さと、心の平穏を保つことの難しさを語られました。その後、各班の発表と、まとめの法話を聴かせていただいて、お開きとなりました。2か月に一度、第3土曜日にお勉強してきます。

変な癖・・・傾向と対策マニア

◆高校生の時、『モンブ(文部省推薦学生)』で、新聞配達をしながらの貧困の状況にありましたから、何とか金を稼ぐ方法はないか?と思いついたのが、『中間テスト・期末テスト傾向と対策プリント=1教科100円!』練習で忙しい野球部やツッパリ系の皆さんに口コミで、よく売れました。が、先生に私の傾向と対策プリントを直に見せて、「当たりますか?」とチクるやつがいて、職員室に呼ばれてオジャン!▼その後、サッカーマニアの私は、Jリーグ発足当時、チケットの発売場所がスポーツ店しかないことに目を付けて、上司に「中国新聞販売所でJリーグチケットを扱いましょう!」と進言し、見事成就。★さてこれからのムムムムと感じるのが、硬式テニス。錦織や大坂選手の活躍がテレビでもよく扱われますが、数年後、高校体育連盟でも硬式テニスを競技種目に入れる予定とか、少子化の波の中、弧の力の競技に人気が出る!各地のテニスコートの需要が増すのは確実!そこで、宿泊施設とテニスコートの『テニス合宿ビジネス』が来る!間違いない!温泉卓球も人気アップ!

映画『孤狼の血』関連の投書から

f:id:tobishima-life:20180518141852j:plain

投書された菅香代子さん(61歳)は、うちの息子が10年前に卒業した福山葦陽高校の元教師でサッカー部の顧問でした。菅香代子先生のご主人の菅龍人先生は、私が40年前に卒業した三次高校の時のサッカー部の監督さんで、現在は福山盈進の校長先生。親子二代にわたりお世話になった先生の「熱い思い」今の教師に伝えてほしいと願います。

2018年5月16日中国新聞朝刊7面広場 信藤健仁さんの投書

f:id:tobishima-life:20180516161942j:plain

Wikipediaによりますと=信藤 健仁(しんとう かつよし、1960年9月15日生 - )さんは、日本の元サッカー選手DF)、指導者(JFA 公認S級コーチ)。広島県広島市出身。元サッカー日本代表中央大学文学部国文科卒業。JSL時代の登録名は信藤 克義(しんとう かつよし)で、Jリーグ後は信藤 健仁と登録されている。広島のサッカー無名校である広島県立安古市高等学校(2期生)、中央大学を卒業後の1983年、今西和男総監督と二村昭雄監督に誘われ日本サッカーリーグ1部所属のマツダSC(現 サンフレッチェ広島)に入団。その年、チームは最下位となりチームは2部転落してしまう。翌年ハンス・オフトおよびディド・ハーフナーがコーチに招聘され、双方からプロとして大きな影響を受けた[4]。1985-86年シーズン、チームは再び1部復帰。そこでの活躍を受けて1987年、石井義信監督下で日本代表に初選出される。翌1988年、横山兼三監督就任と同時にレギュラーに定着。若い井原正巳堀池巧らと共にディフェンスラインを形成し、1989年のワールドカップイタリア大会アジア予選を戦った。また同年6月のインドネシア戦ではゴールも記録、翌1990年のアジア競技大会北京大会では主将も務めた。また、所属チームでは松田浩と共にセンターバックとして活躍。1986年、サッカー界全体の流れから今西にプロ契約を直談判し、マツダのプロ契約第1号となる[5]。1988年にはチームの天皇杯決勝進出に貢献した。しかし1987-1988年シーズン、マツダは再び2部転落。1部への移籍を希望[6] し、1990年三菱自動車(現 浦和レッドダイヤモンズ)に移籍。斉藤和夫監督下で守備の要として活躍したが、2年連続下位に沈み、1992年のナビスコ杯直前、チームがトリビソンノを獲得しレギュラーを剥奪された。1993年、フジタSC(現 湘南ベルマーレ)球団部長だった石井義信古前田充監督に誘われ、Jリーグ入りを目指すフジタへ移籍。ベルマーレ平塚誕生後の若いチームを引っ張り、1994年昇格後のNICOSシリーズ(セカンドステージ)2位、天皇杯優勝、アジアカップウィナーズカップ優勝に貢献した。1995年、35歳で引退。翌1996年からベルマーレ平塚サッカー普及コーチ、1997年からベルマーレ平塚ヘッドコーチ。1996年立ち上げられた「Jリーグ選手協会」にも顧問として尽力した。2001年、代表時代から師弟関係にあった奥寺康彦に誘われ横浜FC監督就任。サッカーファンを仰天させた2-4-4の超々攻撃的システムを掲げ戦う[7]。明確な戦術を提示し積極的に若手を起用、神野卓哉をくさびとする波状攻撃を仕掛け2年間を戦うも、相手チームの徹底したカウンター攻撃に沈み、2002年はJ2最下位という結果に終わり解任された。また現役引退後からテレビ(WOWOW他)の解説、新聞、サッカー雑誌評論などでも活躍。2006年から中央大学サッカー部のヘッドコーチも務めた。2008年12月より、浦和レッドダイヤモンズのチームダイレクターに就任。