第54回中国短編文学賞・・・

エントリーしたけど・・・箸にも棒にもかからんかった・・・実力よね。

っていうか、400字詰め20枚までが規定だったみたいで、俺10枚と思ってた、

今回エントリーした『小説 雲霧』お時間のある方は、読んでみる?

【小説 雲霧】

 霧に包まれた本堂の入り口を開けると、元カープ選手の兄である住職が笑顔で迎えてくれた。大広間に俺と女房、兄夫婦息子夫婦。住職は「本日はお母様の十七回忌、ようこそのお集まりです」。息子に「おばあさまとの思い出もあるでしょう?」と問うと「いえ、会ったことないんです」と息子。住職は一瞬天井を見上げ「ご両親そのまたご両親と数えきれないご縁の中で、誰一人いなくても今の貴方はここにいないのです」。息子に諭すように話した。「それでは」とお経を唱え始めた。


 小学2年生の7月末、俺は母に連れられ、芸備線で県北の祖父母の家に行った。兄は中学校野球部の練習があった。8月末、迎えに来た母は、サンダルのヒールをカツカツと音をたて大通りに待たせたタクシーに手をあげた。俺と荷物を後に乗せ、助手席に座った。車が動き出すと、母は2本のピースに火をつけ、制帽の若い運転手に咥えさせた。窓を少し開け「夏休みは楽しかった?」と運転手。「うん」。広島市内の家の近くのビル陰で降りた。母は俺の目線の高さにしゃがんで、目を見て「誰にもナイショよ」。「うん」。


 父は家に居つかず、他所にも家庭があるらしかった。事業をしては失敗する父の借金の保証人の母は、日銭を稼ぎながら駆けずり回ってカネの工面をしていた。兄は流行りのスポ根アニメに触発され、プロ野球選手を目指した。母の友だちで、俺のことを「百日目からみている」が口癖のナカおばさんが、台所を任せられていた。


 大阪万博の春、俺は小学3年生。母は、老夫婦が年末に閉めた駅西の食堂を、居抜きで借りた。開店準備のある日、店を手伝ってくれる人を母が連れて来た。「従弟のタカちゃん」と父の顔色を窺い紹介。タカちゃんが、あの時のタクシー運転手だと知っているのは俺だけ。店は朝7時から夜11時まで開けることに決まり、朝5時から昼まで母とナカおばさん。昼から閉店までは母とタカちゃん。大中小のメシ、おかずは皿の種類で値段が決まっていた。日雇い労働者たちが開店を待ち大メシをかきこんだ。仕事にあぶれた男はコップ酒をあおった。昼前は運転手が一足早い昼飯。夕方は力仕事を終えた男たちが、棚のおかずを選びビールを飲んだ。作業着と入れ替わりにまた制服の運転手。店前の道路はタクシーの長蛇の列。父は時々やって来てレジからカネを抜いた。
 翌春、野球漬けの日々を送っていた兄が、結核で宮島を臨む山の中腹にある療養所へ。
 食堂は連日大入り、2年目を迎えた。天井から吊り下げたテレビでナイター観戦、客が皆で一喜一憂した。6月、道路交通法改正があり駐車禁止区域が拡大、路上駐車をして来ていた運転手は来なくなった。
 クーラーを設置した7月、父が交通事故で入院。洗濯物の交換など、母の手間は増えたが上機嫌だった。午後3時に間に合うように俺は急いで帰った。タカちゃんと近くの銭湯に行くのが楽しみだった。ある日、鯉の滝登りの絵を背中に描いたおじさんが「お父ちゃんと一番風呂に入れてエエのぉ!」と俺に。「うん」。「タカちゃんが本当のお父さんならどんなにいいか」とも思うようになった。
父が退院した9月、客は作業着姿ばかり、長居する酔客に交じり父は酒盛り、大旦那気取り。9月末の朝、階下からまな板の音がしないので下りて見ると、暗い店内に母一人。左頬が赤紫に腫れあがっていた。店のドアには「勝手ながら臨時休業します」の貼り紙。タカちゃんも来なくなった。10月の最初の朝、四十五回目の誕生日に母は姿を消した。
 父は、飲食店経営の経験があるという子連れ女性を連れて来た。店の二階で妙な共同生活が始まった。数日で開店にこぎつけたが、日に日に客は減った。春、兄は高校に合格し療養所から帰って来た。ラーメン屋で再起を期したが芳しくなく、一年を待たず、その母子は出ていった。残された俺たち。忘れた頃にやって来る父は、腹巻からカネを出して兄に渡していた。兄はカネを受け取ると、米、即席ラーメン、レトルトカレーを買い込んだ。万年床と積み上げた少年漫画。ナカおばさんは兄のいない時を見計らい、駅前のフルーツパーラーで俺にごちそうしてくれた。


 小学卒業を待ち、父は俺を祖父母の家に連れて行った。「毎月最低でも3万円は仕送りします」と頭を下げた。祖父と近くに住む母の妹は反対したが、祖母は俺を受け入れた。祖父は俺の言葉遣いから補正。その後、一度も父からの仕送りはなく、祖父の生活指導の厳しさは増した。兄は高校を中退し、鉄工所に住み込みで働いているとのことだった。
 テストは大小にかかわらず全て検閲され、俺はスポンジが水を吸うように知識を吸収した。リウマチの痛みをこらえ祖母は食事を作り、片づけは俺の役目。食後、お茶を飲みながら祖母は俺に昔話をしてくれた。
 祖父は母を溺愛したこと。祖父の左手が不自由なのは、電力会社で生死の境をさまよほどの労災事故に遭ったこと。母は女学校卒業後、電力会社に就職。親子仲が良く、皆から羨ましがられたこと。原爆直後、広島の本社へ二人とも災害援助に行き入市被爆終戦後3年ほどして、母は見合いで九州の男性に嫁いだが離縁。その後は祖父母の家に寄り付かなくなったことなど。
 俺は恩師に恵まれ、将来の夢は「教員になり、自分と同じような境遇の子どもを導きたい」と思うまでになった。新聞配達と奨学金で高校に通い、新聞販売所の支援を受けて大学受験するも失敗。就職を勧めていた祖父母の家に居られず、新聞販売所に住み込んで浪人生活。翌春、広島の大学に合格。大学近くの新聞販売所で新聞配達と他のアルバイト、奨学金で大学に通った。
自由な大学生活。祖父母の厳しい躾の下で抑えていた宿業が頭をもたげ始めた。楽しそうな学生を横目に、急いでアルバイトに帰る日々。自由にはカネが要る。自分の境遇を恨み自暴自棄になり大学へは行かなくなった。 
 二十歳の師走、叔父から祖母の訃報が届き駆けつけた。仏間に横たわる祖母。手を合わせて振り返ると、茶髪の女が俺の胸に飛び込んで来た。「かんにんやでぇ。苦労かけたなぁ」。大阪弁と煙草の匂いの母。聞けば、カネもちの船乗りと暮らしているという。葬儀を終え、俺が乗って来た車を見るなり「車、買うたろか?スカイラインがエエか?」軽口をたたく母。「そんなことより、原爆手帳の手続き、ちゃんとしてよ」と俺。その後また、母は音信不通になった。
 大学を中退し、県北の新聞販売所に恩返しもせず、広島で就職した。結婚はしないと心に決めていた。ある日、友人の紹介で純朴な女性と出会った。誠実な彼女のおかげで、精神的に安定し業績アップし昇進した。しかし結婚へは踏み切れず、同じ季節を4回見送った。彼女を思い出にすることはできず結婚。叔父夫婦が親代わりとなり女房側との親戚づきあいをしてくれた。一年後に息子が生まれた。生まれる前から胎教に良いクラシックを聴かせ、生まれては絵本の読み聞かせをし、歩けないうちからベビースイミングに通わせた。唯一無二の我が息子。汚れや穢れから隔離した。悪い言葉ネガティブな言葉も排除。純粋を目指して育てた。女房は「先祖への感謝も忘れぬように」と、春彼岸お盆秋彼岸…転勤先からでも、ドライブの行先は、息子と三人いつも本家の墓参り。
 俺の四十歳の誕生日、叔父から「お母さんが脳梗塞で倒れた。危ういらしい」と電話。親子三人で囲んでいたケーキは味が消えた。翌日、命に別状はないとの連絡が入ったが、兄と都合をつけ、母のいる大阪の特養へ向かった。受付で住所氏名続柄を記入し、案内され長い廊下を進むと、介護職員に車椅子をゆっくり押され母は来た。兄にとって三十年ぶりの再会。今にも涙がこぼれそうな兄。暗く鈍く光る母の目。「広島から来たんか?ヒロシマは好かん!」それだけ言うと、自分で車輪を回し方向転換、係の制止も聞かず奥へ。帰路、いつもは饒舌な兄が言葉を発しなかった。叔父に「死ぬまで連絡しないで」と伝えた。数日後、母の暮らす市から『扶養義務照会』が送られて来た。その対応に苦慮した。
 3年後、社員旅行のバスに乗り込むと携帯が鳴り、叔父から母の死が告げられた。すぐ帰宅、女房が準備してくれていた喪服を着て現金の入った封筒を内ポケットに忍ばせた。兄の車で駆けつけた大阪の葬儀社。倉庫の片隅に母は寝かされていた。少しして、せわし気な男が入って来た。「あんたら息子さん?お母さんには呆れたでぇ!一回りも歳をごまかしてたんやから!とんだ寅歳やわ!あとは頼むでぇ」と踵を返した。頭を下げて見送った。葬儀には母の妹弟が集まった。俺はまだ温もりの残る骨壺を抱き、祖父母の代から世話になっている寺に電話で事情を説明した。夜遅く県北の寺に着くと、ヒゲの住職は私たちを労い、母を預かってくれた。


 四十九日法要の日、全国的に記録的大雪。本家のおじが、裏山の墓所までの坂道を、雪かきして待っていてくれた。降り続く雪の中で、納骨しお経をいただいた。祖父母の元に母は還った。カタンカタン、向かいの山すそを走る三江線。振り返ると、白い両岸を清く大きな江の川が隔てていた。
 若い住職は読経と御文章を読み上げた後、「お経の中に『雲霧』が何度か出てきます。これは、雲や霧で覆われていても、その上は必ず日の光が照らしてくださっている。安心して暮らしなさい」という意味です。住職に見送られ本堂を出る頃には、霧は晴れ秋の日差しが暖かかった。