今朝、新聞の片隅にポツンと小さく出ていました。第53回中国短編文学賞の入賞者発表。この日を待ち望んでいたんですけど・・・ボツ!最終選考10作品にもかからず、ボツ!まあ、2回目の作品応募、1回目は13年前、福山時代に、『駅前の一休さん』という話=西高屋の駅前の中国新聞西高屋販売所の前所長さんの故日山員久さんをモチーフにした作品でした。この時もボツ。今回は・・・写真の下に、原文を掲載します。
『昼の月』元の会社の最高責任者GTOと私とのストーリー。さてさて、長いけど・・・
『昼の月』原文
いまだに、貴方のことを夢に見る。貴方は大学卒業後、地元企業の子会社に入社、すぐに頭角を現し三十歳で実質の最高責任者に。大学を中退し自暴自棄の俺を拾ってくれた。県北の高校の十年先輩で、サッカー部監督の同級生。「サッカーが世界ではメジャーなのに、日本は野球が主流なのは、けしからん!とサッカー好きは屈折しとる」入社面接で。複雑な家庭に育った俺を親分肌の所長がいる営業所に配属。荒んでいた生活も、やがて落ち着き、彼女もできた。訪店時、明るくなった俺を見て「彼女できたんか?その彼女、大事にしんさい」。その彼女と四年の交際期間を経て、式だけで披露宴はしないつもりの俺たちに、会社をあげて披露宴を催してくれた。翌年、十番目の営業所を県央のニュータウンに店舗付住宅で新設、俺を所長として抜擢。新居に引っ越し、やがて子どもができた。
貴方は、野球好き社員のために全店参加のソフトボール大会を。車好きにはローンの保証人に。パチンコ好きには新台情報を、競馬好きには勝ち馬予想を。社員はファミリー。誰よりも早く出社し、誰よりも遅く帰った。全社員の生活を守り、趣味や興味に休みなく寄り添った。仕事を中心にしながら、一人ひとりのライフデザインを微に入り細に入り描いていた。社員は皆、新しいステージが準備され、その期待に応えようと、好循環でどんどん会社は大きくなった。
しかし、本社に対する子会社の立場は変わらず、三年ごとに本社から天下りで社長がやって来た。「わしは月。地球の影で満ち欠けする。じゃが、一定の距離をおき、定点観測することで地球の変化が分かり、次の一手が読める」と呟いたことがある。
毎月五日、広島の本店で所長会議、所長の人数は年々増えた。俺は丘の上のニュータウンで平穏な日々を十年余り過ごした。立地条件も良く、業績は至って好調、しかし貴方に褒められることはなかった。
ある五月の連休明け、秘書の春山と貴方が突然の訪店。六月一日付で福山へ転勤辞令。一人息子は小学生、俺はPTA副会長、少年サッカーチームのコーチ。犬も飼っていた。単身赴任の申し出に「必ず奥さんと一緒に」にべもなく。息子は学期途中で転校。福山の社宅はペット不可、犬は女房の実家へ。
新築ビルの大規模営業所へランクアップ。前所長は俺と同い年の大人しい男で三人の子持ち。入れ替わるだけの人事異動。土地探しから尽力した彼の無念を思うと、素直には喜べず、申し訳ない気持ちが強かった。
八月一日、ビルの完成披露が盛大に催された。翌日「所長おるか!テレビの映りが悪ぅなってなぁ」と隣人のクレーム。その要求は日ごとにエスカレートし常軌を逸したものになった。日々の状況を報告。女房を心配させまいと、隣人クレーマーのことは極秘に警察の生活安全課に報告し相談。ビルの用地は、市役所に近く国道に面したガソリンスタンドがあった一等地。長年空き地になっていた場所。「この緊急人事は、これが原因だったのではないか?」と疑心暗鬼に。エリアは広く業務量は多く、モンスターカスタマーなどのトラブル続出。本社重役の息子も社員として預かっていた。業務量と処理能力のミスマッチで疲労困憊。二か月後、隣人は覚せい剤所持の現行犯逮捕でいなくなった。問題が一つ解決したが、仕事は山積み。許可を得て現地社員を採用し、翌年の盆になりやっと軌道に乗って、休みが取れた。
その後も会社の勢いは右肩上がり。四年後、県東部の営業所は六店舗になり、俺はその統括責任者を任じられた。統括とは、何をどうして良いのか見当がつかなかった。貴方に要諦を訊くと「神出鬼没」と一言。貴方がこれまでしてきたことを思い出しながら、抜き打ちで訪店しては業務をチェックした。部下が指示に従うのは、俺の背後に貴方の影を見ていることは判っていた。
管轄の営業所が九店舗になった頃になると業績のピークは過ぎ、三つの営業所を二つにするなど、整理統合局面に転じた。貴方の命令に従い「涙隠して人を斬る」整理屋としての仕事をするようになった。開拓し育てた店や人を、法に触れないようにリストラする。「仕事を通じて皆を幸せにする」という理念は「会社の存続のために」という大義の前で崩れていった。
福山に赴任して八年目の秋、息子の就職が決まったことを報告。「肩の荷がおりたのぉ。ゴルフを始めるなら、夏坂健の本を読んでから」と勧められた。その本はゴルフのマナーから歴史や由来、様々な角度でゴルフの奥深さが語られていた。出勤前に毎朝ゴルフ練習場へ通い、リストラした者への思いを断ち切るようにボールを打った。
翌年十月、春山が「十一月二十四日振替休日、県北のホームコース、九時スタート」とゴルフの誘い。しかし、十一月初旬「娘さんが亡くなり密葬で送った」の情報が入った。奥様も癌で長く入院していた。以前は深夜まで本店にいた貴方は、夕方六時には病院の個室に毎日見舞っているとのことだった。
キャンセルを覚悟したが、連絡なく、その日は迫った。天気予報は「一日中冷たい雨」。春山から着信無し。朝五時、福山を出て七時過ぎ、貴方のホームコース着。エントランスにスタッフ女性が一人。バッグを降ろし、受付フロントで初老の紳士が柔和な笑顔でロッカーキーを渡してくれた。雨音だけの静寂、練習場で打ち始めるが霧でボールの落下地点は見えず。練習グリーンの時計が八時半を示す頃、春山と同期の高木が姿を見せた。貴方は喫煙コーナーでキャディさんと談笑。ゴルフカートは一台。どうやら、客は俺たち四人だけのようだった。
スタートは南1番。帽子のつばから雫が滴る。顔だけ異常に熱い。練習したルーティンでドライバーを強振した。霧に煙るコース。キャディさんのおかげで、ボールはすぐに見つかった。前半9ホール終え、昼食。貴方は「肉うどん、久しぶりに肉を食べるか」春山と目をあわせていた。俺はゴルフの話題に終始した。後半は東1番から。降り止まぬ雨、最終ホール、チップインでパーが取れた。貴方は自分のことのように喜んで、右手でハイタッチ。貴方の手のひらが柔らかだったことを、今でも鮮明に憶えている。「風呂に入らずに先に帰るから。気をつけて帰りなさい。この次のラウンドは晴れるといいが」めずらしく優しい言葉をかけてくれた。
俺の親はすでに亡く。女房の親も高齢で、島の柑橘畑を手伝う回数は年々増えた。年明け、知人伝いに、隣の島で事業の後継者を探している話を聞いた。温暖で風光明媚な島での田舎暮らしに心が動いた。ここ数年、次々と部下をリストラして自分が会社に残る状況に、割り切れないものを感じていただけに、気持ちは傾いていった。
四月、退職の申し出に、応接室のソファにため息をつきながら深く座り「虚心坦懐に話してくれ」と貴方。「子が親離れするように、貴方の庇護の下から離れたい。自己決定し自己責任で生きてみたい」と本音は言えなかった。女房の両親ことを理由にした。貴方は「ご両親にしたら有難迷惑かも知れんぞ」と鋭い。不承不承ながら、円満退職のシナリオを書いてくれ、九月末での退職が決まった。
七月、数年にわたり闘病生活をしていた奥様が旅立たれた。喪主挨拶で貴方は「妻はいつも私を支えてくれる同志のような存在でした」と言葉を詰まらせた。葬儀後、「今度は俺たちが支えなければならない」と熱く語る同僚たち。退職をまだ公にしていない俺は、聞こえないふりをしていた。貴方の書いたシナリオに従い、部下と関連会社と本社との引き継ぎを、笑顔で済ませた。
十月、これまでのように、貴方のせいにできない新生活。女房の実家からスープの冷めない距離の隣の島に借家を借りた。事業を引き継ぎ営みながら、実家の柑橘畑を手伝う。会社員時代と違って、待ち時間や空き時間はない。次々と課題を見つけては、自分でクリアしていく忙しい日々。
十一月のある日、畑から帰り家の郵便受けを見ると「喪中につき新年のご挨拶はご遠慮申し上げます」のハガキ。消印は無かった。
島暮らし三年半経った三月末、携帯電話に元同僚から「倒れて集中治療室」の第一報。知人から続々「今夜が山場」「厳しい状況」。翌日「亡くなった」。参列者の多さを考慮し、交通至便で広い会場を確保。土曜日の通夜に間に合わせた様子。会場には二時間以上前に駆けつけた。BGMに貴方の十八番、河島英五の『時代おくれ』が流れていた。棺の中の貴方の顔を見た。いつものように不機嫌な顔をしていた。春山がそっと後ろに来て「倒れたとき、私たちもその場にいて、すぐに救急車を呼び、心臓マッサージも試みたんですが、すみません」。俺は黙って頭を下げるしかなかった。後から後から続く人たちにも、春山は同様の説明をしていた。この数年の間に妹母父を亡くして一人残された息子さん。喪主挨拶で「人は二度死ぬと申します。一度目は肉体の死で、二度目はその人のことを憶えている人の死。どうか、父のことをいつまでも憶えていてください」さすがに読書家の貴方の息子。
貴方が逝って八回目の春。冬枯れの芝も少しずつ緑色になってきた。瀬戸内海を見渡せる俺のホームコース、最終18番、見上げると東の空に、昼の月がこっちを見ていた。