西高屋の思い出

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今朝の朝刊で、西高屋駅前が変わるって。1990年7月1日、西高屋駅から北へ1kmの東広島ニュータウン(高美が丘)営業所が開業し所長として赴任した。西高屋駅前には老舗の中国新聞西高屋販売所があって、地域の名士の日山さんが経営しておられた。住友肥料を経営していた日山さんに、中国新聞社から新聞販売のお願いをしたとか。1970年代には、マツダタウンが駅の南側にできて、西高屋地区の人口は急増。読売新聞で県内最強の佐々木氏と朝日新聞では堅実派で知られた森本氏に、温厚な日山氏。競争激戦地として、県内でも有名だった。近畿大学も呉から移転予定。東広島ニュータウンは、元々日山氏のテリトリーだったけど、血で血を洗う激戦が予想されたため、そこだけ本社の直営として、切り取って、武闘派の俺を派遣した。山陽自動車道も西城インターまでつながっていて、車中、中国新聞販売局の部長さんは「ハマちゃん、75%でいいから・・・」って!部数を世帯数で割った普及率のこと。引き継ぎ時点で、200世帯で、100部だったので、50%だった。それから、個人情報を色々入手して、引っ越してくる前に勝負して、2000年に福山に転勤するときには、東広島ニュータウンは2000世帯で1300部くらいだったと思う。無理!75%なんて!いつもいつも、日山さんのご一家には助けてもらったよ。オリコミが少ないので、手伝って、半端をもらって、折り込んだり、マツダタウンから引っ越してくる人が多いから、他所からマツダタウンに引っ越してくる段階で、うちへ来るかどうかはわからないけど、営業させてもらったり、考えつくことはすべてやった。いつもニコニコしてて「やってみんさい」って。夕方には『麺恋』で生ビールをごちそうになって、三原にタコつりも連れてってもらったこともある。読売新聞の拡張員にネクタイを引っ張りまわされたこともあった。まあ、俺が挑発したからいけんけど。日山さんは新聞を買いに来る人のために、新聞とカンカンを駅前の販売所の作業台の上に置いていて(自宅は別なので)、ある日カンカンが盗まれたことがある。その時「悪いことをした。盗人をつくってしもうた」って、「毎日、小銭を回収しておけば、盗む気にならんかったじゃろうに」と。やっぱ、育ちがいいわ!って思ったよ。