【黒歴史】俺の小学6年生は高校生の兄と2人、是枝監督の『誰も知らない』状態。時折やって来ては、兄に生活費を渡しどこかへ行ってしまうお父さんという自由人。1974年3月、関西弁のやりてババLOOKSのおばさんを連れて来て、いきなり「中学校は大阪の中学校へ」と言い出した。駅前のホテルに二人は連泊して、俺の小学校卒業式が済むのを待って、観音の広島空港へ、YS11の窓から見下ろす瀬戸内海は、いくつもの船の航跡波が白く長く伸びているのが見えた。伊丹空港からタクシーで阪急電鉄沿線の豊中・岡町近くのスナック『ホワイトハウス』の2階に。そこでも自由人は常駐しているわけでもなく、時々やってくる程度。豊中市には第1中学から第12~中学まであって、校区が第5だったので第5中学に通った、初めは愛想が良かったママも、馴染まない俺を快く思ってない様子。こりゃ・・・ちとツライ、と思った俺はこれまでママに「あのう」とか言ってたのを、殺し文句「お母さん」と言ってみた。いきなり上機嫌に、次の夜はステーキだった。「お母さん」と「お父さん」の関係が冷え込むと、卵かけご飯の連続になり、夏休みには居場所がなかった。夏休み明けの9月、自由人が三次市の母方の祖父母に、俺の養育を依頼。母の妹・弟・次弟らは皆反対したらしいが、祖母だけが「面倒を見る」と言って、9月の半ば三次市の祖父母の家に。自由人は「毎月30000円以上」養育費を送りますけぇ!と俺を連れて行った日に30000円を渡したっきり、音信不通に。針のムシロの日々が始まる・・・。続きは・・・次回・・・