サッカーがつなぐ縁

私ハマは、小学校4年生からサッカーをやってて、足が遅くて大した選手ではありませんでした。

三次高校の時、10歳年上の 菅龍人先生(現 盈進中学高校校長)がサッカー部の監督。

備北地区の取りまとめをしていたのが、吉池文也先生(サッカーミニミュージアム主催)。

三次の新聞販売所の森島所長もサッカー好きで、ヨハン・クライフマリオ・ケンペスが、

広島で試合興業するときには連れて行ってもらいました。

大学を中退して就職した中国新聞の子会社の部長が、菅龍人先生の高校の同級生の後藤貴志さん。

後藤さんはサッカーの理解者で、広島市中心部の竹屋小学校のグラウンドでナイター照明を使い

社会人のサッカーチームを作りたいと申し出たときも、募集チラシの作成やオリコミを快諾。

そのオリコミでグラウンドに集まったのが、サンフレッチェ元総監督今西和男さんやTSSの

吉村行正さん元ホームテレビの西岡アナなどでした。

東広島に転勤しても、高屋中学校のグラウンドのナイター照明の下でサッカーをするチームは

またも、メンバー募集はオリコミ広告。集まったメンバーにマツダサッカー部の応援団に

所属する佐藤さんと熊谷さんがいて、サンフレッチェのプロ化の署名協力などをしました。

1992年ナビスコカップに際して、チケットの発売窓口の開拓に窮していたサンフレ広報の

前田良一さんに「中国新聞の販売所で扱うようにしたら・・・?」とFAXし、それに応じた

前田氏と私の上司の後藤貴志氏をコネクトし、中国新聞全販売所でチケットを扱うことに。

これが縁で、サンフレッチェが誕生し「サポーターの代表」としての活動が始まりました。

サンフレッチェの年鑑にサポーターとして出、テレビ「フレフレサンフレ」にも、

早川文司著「奇跡のイレブン」にも出て、ブームの中、無償でよくやったと思います。

広島エフエム「GOA~L」のパーソナリティとして、川野美津子(かわのみつこ)さん

谷口(今岡)祐子さんと毎週火曜日の夜8時から8年近くしゃべっていました。

これは一回いくらで、いただいておりました。大学を卒業したての大野貴子ADに

「一円でももらっていたらプロですから・・・」とたしなめられたことは、

今でも忘れることができません。